境内案内

1.本堂

江戸末期に建設され、以前はかやぶき屋根でしたが、昭和54年にお屋根替えが行われ、現在銅版の屋根になっております。古くから、うなぎの絵馬を納める風習があり、現在も古いうなぎの絵馬が、多数納められています。

2.山門・仁王堂

今からおよそ250年程前、千葉某という人がおり、日頃から虚空蔵尊を信仰していましたが、あるとき病気になり、 病状が日毎に悪化して死を待つのみとなってしまいました。

そんなある夜、夢の中で、 虚空蔵菩薩が枕辺に立って、「柳津虚空蔵尊の境内に二又人参あり。 これに手持ちの薬草を混ぜ、黄土山より流れる黄金水を以って、煮じ飲めば一夜にしてたちまち治癒す。」 と、いいました。

すぐに人を使わして、これを用いたところ、さしもの大病も薄紙をはぐ様に数日を経て全快したので、千葉某は、その恩にむくいるため、本堂前の御霊木のけやきで 仁王一対を刻んで、奉納しようと思いたちました。

当時、樹齢2000年にも及ぶ古木で、行基開山当時より人々に親しまれておりましたが、斧を入れてみると、樹間より血がにじみでてきたので、祈願の旨をふくめ七日間の斉戒沐浴の後、仁王を彫み堂を建立して安置しました。このような名木をもって彫んだ仁王なので衆人の信仰は厚く、何時の頃よりか病傷の箇所に紙をつばでぬらしあてれば、たちまち平癒すると伝えられております。

ちなみに仁王堂側面には、文政、天保、嘉永等のすみ書きがあるのをみると、いかに当時の信仰が厚かったのかを知ることができます。

3.なで牛

古来より素焼で造った臥した牛の像のことで、商家などに祀り撫でれば家内安全・商売繁盛・如意吉祥の古事があるといわれ、永年信仰の対象として崇拝されてきました。近年、古事は勿論のこと、自分の患部と同じところを撫でると病気平癒するといわれております。神牛に念願を懸け一心に撫でお祈りください。

「心願を懸けて祈らば 願い事 何一つだに叶はざるし」

4.なで寅

寅は十二支の三番目にあてられ尊ばれております。子を愛し手元から放さないということから、大事なお金を「虎の子」といいます。寅の口にお賽銭を入れると金運に効くといい、参拝者の方々が信仰されています。

5.鵲橋(かささぎばし)

「鵲の渡れる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞ更けにけり」

今から千年程の昔から、中納言家持の作として百人一首に詠まれ永く世人に親しまれております。この歌は、虚空蔵尊に至るこの橋の上で詠まれたといい伝えられております。

~~家持と乙女の物語~~

桃生郡茶臼山にいた家持が虚空蔵尊に詣でたのは宝亀3年春、3月桜の頃でした。
祈願の路でしたので、従う者も少なく大士山の花をめで、歌を詠むなどして、一日の行楽を欲しいままにしておりました。帰り道、せんせんと流れる渓谷に洗う乙女の姿を見て、家持は驚歎しました。その清楚端麗な容姿は深山に咲く白百合の如く、又、呉越の美妃西施もかくやと思われる程の美しさでした。
かくして桜散る春の夕菜の花匂う夏の朝、詩人、家持のしのんで通う姿は茶臼山より大柳津に幾度となく重ねられました。
そして秋、一夜更けるも知らず語りあかして帰途についた家持は、しらじらと霜おく橋にたちその郷愁を歌ったのがこの唄であるといわれております。

現在の鵲橋は日清日露戦争の勝利記念に架けられたものです。

6.大伴家持の墓 伝説

住古より大柳津に家持の墓があったと伝えられています。桓武天皇の時代、延暦4年、都に謀反がありました。事成らずして一味は捕られましたが、主謀者の一人が調べに対し、 その総指導者は、中納言家持であると言上しました。この時、家持は既に死んでいたので、その息子が島流しとなりましたが、やがて無罪であることがわかり、うたがいは晴れました。

この話には諸説あり、実はこの時家持は生きており大柳津に逃れていたという説や、家持は死んでいたが、家臣が亡骸をひそかに大柳津に運び葬ったという説があります。

7.子安観音(こやすかんのん)

子供を抱いている姿から、マリア観音ではないかといわれています。観音像では珍しく石でできており、高さは2尺程。右手にピンクのはすの花、左手には我が子を心からいとおしい様子で子供を抱いています。

8.子育延命地蔵尊(こそだてえんめいじぞうそん)

子供を守るお地蔵さん。地蔵菩薩は本来密教的にいえば、大地が万物を育成する徳を仏格化したもので、虚空蔵に対して考えられたものとされています。

また、当寺のお地蔵さんは木でできており、一般的なお地蔵さんの可愛らしい姿とは異なって、当寺独特の精悍なりりしいお顔をしています。

9.弘法大師堂


弘法大師(空海)が祭られております。弘法大師は、今の香川県にお生まれになりました。18歳の時に出会った一修行僧(勧操)に虚空蔵求聞持法を教えられて、大いなる智恵を得たといわれております。
はじめから、上手にいかず、3度目の挑戦で「満願の日、口の中に明星が飛び込んできたような状態になった」と三教指帰にあるように明星をご覧になりました。弘法大師はこの秘法により悟りを啓いたと言われております。


天井画数日本一の、運気が上がる波動画家、斎藤サトル画伯の天井画。
この天井画の龍のあるところに描かれている「ハート型」を見つけると良縁成就すると言われています。

10.稲荷堂

稲荷明神をお祭りしているお堂です。「おいなりさん」として親しまれ、穀物 ・農業の神様として知られておりますが、産業全般の神としても信仰されています。

11.弁財天(弁天堂)

美貌学芸の神様
美しく賢くなるご利益があると言われ、諸堂の中で女性のお参りが一番多い神様です。

12.薬師堂

薬師如来をおまつりしております。大医王仏の異名からもわかるように、医学・薬学の仏様です。

13.天神堂

学問の神様「菅原道真」をまつっております。道真は当山のご本尊さまが守る「丑年生まれ」といわれております。

14:厄除け不動

不動明王の力で厄を避ける仏様です。

 

1.玉こぶのけやき(縁結びのけやき)

弘法大師が密行を終え、下山の際かたわらのけやきの枝を折り、杖としこの地にさして去りましたが、活着し亭々として成長したと伝説のあるけやきです。縁結びに大変なご利益があり、イボ取りやこぶ取りにも霊験新たなりとして信仰されております。

平成18年に一部焼失し、現在は炭化した状態に屋根をかけ保存。燃えた時は、青光りする炎が木の中から煙突のようにあがり、普通の炎とは違っていました。炭はあらゆる空中の無機物を吸収する性質をもっており、炎焼後の今、神々しさを尚、増しているように見えます。

2.雫の桜

葛西公奥方お手植の桜です。葛西晴信の奥方が日和山の名木「しだれ桜」の鉢をここで割り植えました。その後伊達家に追われ、佐沼に落ちていきます。

晴天の日でも葉先からしずくを落とし、それがさながら奥方を慕う涙か、はたまた奥方の悔し涙かと言われています。現在は枯れてしまい幹のみとなりましたが、樹令は400年になります。

※源頼朝から地頭に任ぜられる。伊達氏に滅ぼされるまで鎌倉時代から、桃生、牡鹿、本吉地方一帯を治めていた。
※天正18年、豊臣秀吉の臣、木村春貞、蒲生氏の軍にまず石巻で大敗した葛西晴信は佐沼城に移り、力戦甲斐なく自害し、ここに葛西家は17世紀約400年にして滅亡した。

3.一夜の松

ご本堂から向かって左側にある松は、ご本堂お屋根替えの時に、一夜にして虚空蔵菩薩様が曲げたといわれています。元和元年、今より約400年程前、虚空蔵尊が建立され、当時は若木だったのか、一次才に成長して枝がお堂の屋根をおおい、傘のようであったので、村人は「虚空蔵尊の傘松」として珍重し、地方の名物になりました。

幾年かが過ぎて、お堂のお屋根替えとなった時、和尚、職人、村人達が心配したのは、この松の木が邪魔になることでした。協議が幾日となく続きましたが、ついに名案はうかばず、いよいよ明日切られるとなり、その夜、和尚が眠りにつくと、夢の中で、仏のお告げを受けました。

あの松は今まで虚空蔵堂を雨風から守ってきたのだ。明日までには屋根替えの邪魔にならぬ様にしてやるから、幾久しく大切にする様に」と言うのです。夜明けをまって和尚は、お堂の前に立ち、松を見ると、木は幹の中断からよじれ、お屋根替えの差障りのないようになっていました。まさに、 お仏のお告げの通りになっていたのです。

4.月見の井戸

弘法大師が黄土山より下山して此の地に来た時、「 かかる仙境に水なきは不便なり」と錫杖をふって経を読んで、法をねること7日が経ちました。ある夜杖が地底に徹して、湧水が天に沖しておさまった時、昼間にもかかわらず月影をのぞんで星のまたたくのがみえました。大師はこれをみて「これ、仏尊の興えし水なり」と言って去って行かれました。

現在の井戸は土砂にうづもれてその深さは昔の数分の一ですが、数十年前までは夜、月を見る事ができ、その美しさはたとえようがなかったといわれています。

5.片葉のよし


仁王門をくぐると左手に小池があります。この池に今のかねつき堂の所を通り本沢より真直に沢を掘り水を注いだのは今から200年程前のことです。この沢に生えたよしは、一方にのみ葉が生じて、さながら本堂に頭をたれたように見えたということです。大伴家持の庵の跡に生えたといわれており、現在は残念ながら絶えてしまいました。

6.黄土山の黄金水

行基菩薩が、黄土山頂上で秘法を行い湧き出た水で大衆の飲料水に指定された無病息災の水です。現在でも遠方より多くの方々が黄金水を汲みにいらっしゃいます。この水は、下記の山門の仁王堂との深い関わりの物語があります。 

7.子育ての松

境内に一本の松がありました。いつの間にやら幹の間に杉が生えてきて、それが子を育てる松の姿に見えました。今はその松は枯れてしまいましたが、子の杉のみ、亭々として一盛観をそえています。

(松が枯れたのは約百年前です)