本尊と行基と家持

お寺の縁起

行基菩薩は、天皇から勅を受け東国を巡遊してこの地に来て、御修法21日間一刀三礼を勤めて自ら虚空藏菩薩を刻みます。丈、一尺二寸にて、天下泰平、国家安穏を祈り、翌月13日一宇を黄土山の嶺に創立し、安置して法を7日間説き、一村の守護仏として尊崇しました。

その後、宝亀3年(771年)3月、大伴家持が宮城郡多賀城にありし時、黄土山に登山してご本尊様を拝して「日本三所の秘仏である、かくも尊いものなれば、33年目毎に開帳する外、みだりに衆人これを拝すること恐れあり」と言われました。

そして弘仁9年(818年・第52代嵯峨天皇)5月3日 弘法大師が比の堂に籠り、21日間密行を勤めて、大黒天長さ八寸のものと、毘沙門天長さ一尺二寸のものと2体を刻し、 本尊の左右に安置して本堂を今の地に移すこととなります。 さらに後に、中古にいたってはしばしば野火にあいましたが、幸いにして本尊の安泰をえており、貞享2年(1685年徳川綱吉の時代)3月13日智積院大法王来山して、仏像を拝して、行基の作であることの鑑書を受けました。 大祭は4月・10月の13日で、平成28年には37回目の御開帳が行われました。なお、現在の住職は第51代杉田観龍です。

虚空藏菩薩

丑年・寅年の一生一代の守り本尊であり、また十三仏の最後三十三回忌の本尊です。

さらに「智恵と福徳」の仏様で、智恵の欲しい者、人々から愛されたい者、名声を上げたい者は、虚空藏菩薩の真言を唱えれば願いが叶えられると記されております。(智恵・記憶をつかさどる菩薩であり、空暗記・空んじるの語は虚空菩薩の空からきている)

行基菩薩開基の寺

奈良時代神亀三年(726年)行基菩薩は聖武天皇の勅を受け、東国を巡拝の折、この地黄土山をお選びになり、山頂にて一刀三礼の秘行を持ち、天下泰平萬民豊楽を念じ御本尊となる虚空藏菩薩様を彫り上げられました。当時、都のみならず人々は飢饉、貧困、疫病、重税に喘ぎ苦しんでおりました。その民衆を救うため行基菩薩様は当時平民につたえることを禁じられていた仏教を命を顧みず弘め民衆の心を救いました。また、布教だけでなく農民の命を守る灌漑事業にも力を尽くしました。行基菩薩様が当山で全身全霊で天に奉じた御本尊様は秘仏でございます。さらに後に、中古にいたってはしばしば野火にあいましたが、幸いにして本尊の安泰をえており、貞享二年(1685年徳川綱吉の時代)3月13日智積院大法王来山して、仏像を拝して、行基の作であることの鑑書を受けました。

大伴家持が庵を結んだ寺

三十三年に一度の御開帳を提言した大伴家持。771年(宝亀2年)に、陸奥国の鎮守府将軍の任に当たっていた大伴家持が当山のご本尊を拝した際、「この仏像は行基の作で、かくも尊いものなれば、三十三年毎に開帳する外、みだりに衆人これを拝すること恐れあり」と言われたと言い伝えられております。以来、当山は三十三年に一度「秘仏御開帳」を行っております。

「鵲(かささぎ)の渡せる橋におく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける」
今から千年程の昔から、中納言家持の作として百人一首に詠まれ永く世人に親しまれております。この歌は、虚空藏尊に至るこの橋の上で詠まれたといい伝えられております。

家持と乙女の物語

桃生郡茶臼山にいた家持が虚空藏尊に詣でたのは3月桜の頃でした。祈願の路でしたので、従う者も少なく大士山の花をめで、歌を詠むなどして、一日の行楽を欲しいままにしておりました。帰り道、せんせんと流れる渓谷に洗う乙女の姿を見て、家持は驚歎しました。その清楚端麗な容姿は深山に咲く白百合の如く、又、呉越の美妃西施もかくやと思われる程の美しさでした。
かくして桜散る春の夕菜の花匂う夏の朝、詩人、家持のしのんで通う姿は茶臼山より大柳津に幾度となく重ねられました。
そして秋、一夜更けるも知らず語りあかして帰途についた家持は、しらじらと霜おく橋にたちその郷愁を歌ったのがこの唄であるといわれております。
家持はどこで亡くなったか詳細は分からないのですが、墓が当山にあるのではといわれております。

令和とのゆかり

大伴家持(718頃~785年)天平文化を代表する歌人。
長い時を経て多くの人々によってまとめられた 『万葉集』を、最終的に現在の二十巻のかたちに編集したのが大伴家持だといわれております。家持の父親 大伴旅人(665~731年)は、新元号「令和」を典拠した万葉集に収められてる「梅花の歌32首」の序文『初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす』の作者です。
家持の祖父、曽祖父をはじめ父親である大伴旅人やおじおばにあたる坂上郎女、稲公、宿奈麻呂、弟の書持や妹の留女之女郎や、家持の妻坂上大嬢など、一族代々万葉歌人であり、貴族である大伴氏の跡取りとして、幼いころから貴族の子弟に必要な学問・教養を学んでいました。

大伴家持の墓 伝説

住古より大柳津に家持の墓があったと伝えられています。桓武天皇の時代、延暦4年、都に謀反がありました。事成らずして一味は捕られましたが、主謀者の一人が調べに対し、 その総指導者は、中納言家持であると言上しました。この時、家持は既に死んでいたので、その息子が島流しとなりましたが、やがて無罪であることがわかり、うたがいは晴れました。

この話には諸説あり、実はこの時家持は生きており大柳津に逃れていたという説や、家持は死んでいたが、家臣が亡骸をひそかに大柳津に運び葬ったという説があります。

絵馬のうなぎ

虚空蔵菩薩は本地垂迹説によると、雲南神(うんなんかみ)になるといわれ、その雲南がうなぎに転じたという説や、うなぎの雲にのって虚空蔵菩薩が現れる、また、虚空蔵菩薩を信心していた人がうなぎに助けられた逸話など、数多くうなぎに関するお話があります。

また、お願い事をご本尊様へ届ける役目をしているといい伝えられ、絵馬には、うなぎが描かれていて殺生してはいけないことになっております。
そのため当山の住職はじめ、その家族は皆、うなぎは食べません。
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